我々は動物であるべきか、人間であるべきか。

という話。

 

地球上にはこの2種類の人類がいるように思う

それは都市の発展具合にもよるもので、選んでどうにかなるものでもない

ただ基本的には1種類であるべきだと思うし、

1つの種として、統一されなければ滅びそうだと思った。

 

犬や猫なんてのも、野生のそれとペットのそれでは

もう完全に違う種類のように思う。

彼らはペットとしての生活と、野生としての生活

選べるとしたらどちらを選ぶのだろうか。

 

人類もそうだ、動物としてのヒトか、人間としての人か

どちらを選ぶのだろうか。

人の命を奪うヒト、人の物を盗むヒト

自分の命を殺す人、ヒトの能力を妬み羨む人

この国の犯罪やルールはほとんど人間用に作られているが

この国の人類が全て人間であるとは限らないとする場合、

法律は国の正解ではなく、国内の大多数の人間として生きる人類のエゴのようにも思う。

地球規模ではどのくらいの割合なのだろうか。

 

日本はかなり裕福な国であるため、多くの人間が生活をすることができている

人間が多い場所は野生動物が少ない。

それはこの地球で決まっていることだ

動物であるヒトもこの国の中にはほとんどいない。

それこそ法律やルール、教育など国の力で、人間が住むべき場所が確立されている。

だから争いごとも少ない

ほかの国は、まだ不安定だから戦争とか、犯罪とか

多分それらが平気で起こるんだと思う。

 

やっぱりどっちかに統一しないと

種としての存続は難しいように思う。

 

特に人類は、変化、進化、が激しい生き物だから

多種多様なものが存在しており、

生き物図鑑に載るようなオリジナルの姿が存在しないように思う。

 

 

自分はこの国で文字を打っている以上、

犬猫で言えば野生ではなく、飼育されている部類に入るように思う。

同じ人類が友達や家族にいる

もし野生の人類を見つけたとしたら、可能ならこちら側に来いと思うだろう。

それを飼い猫の立場で置き換えると、野良猫が全ていなくなって

全てが飼い猫になればいいと思うのと同じだと思う。

ネズミなら、ネズミ。

虫なら虫

どの立場でも飼育されている側は、こちらの方が幸福で

我々が虫であり、ネズミであり、猫であると思うに違いない

猫らしくあるためにコタツで丸くなり

ネズミらしさをもとめてチーズを食べて

虫らしい幸福を得るために、脱皮するのだ

 

我々飼育されている人間という種の人類も

精神科医という他人がみつけた幸福に食らいつき、SNS上での見栄えを気にしたファッショナブルな幸福だけを幸せと呼んで

人間らしさというフレックスタイムな生活を送っているはずだ、

 

そして猫が猫であるべき姿はこたつではなく自然のなかだと言い張り、

捕獲を規制し、

ネズミを自然から奪っては、できる限り自然に近づけた環境で飼育する

結局、人間という生き物は、そうあるべき姿や、そうあってほしい姿に固執する。

それをペットや飼育と呼んで、また人間らしい幸福の1ページに記述する。

 

いかに矛盾しきっているか

ということがよくわかる

人間という種は明らかにこの星では異質で、

生物学的法律や、自然界のルールで見ると、

我々の行う窃盗や殺害なんてものよりももっと気持ちの悪い

この世の中で1番多種に影響を与える存在であることがわかる。